自然と産業が調和した、歴史の面影を残す街、八王子市の歴史について紹介します!

自然と産業が調和した、歴史の面影を残す街、八王子市の歴史についてご紹介します!
八王子城跡

東京都心で働く人々のベッドタウンとして、その住みやすさが注目を集めている街、八王子市。郊外ならではの豊かな自然と都心への利便性が両立していることが魅力です。そんな八王子地域は、実は古くから現代と同じように、自然と産業が調和した街として知られ、人々が集まり賑わいを見せる交通の要衝として、現在に至るまで発展を続けてきました。

今回は、そんな八王子市の発展の経緯をひもとき、八王子市の成り立ちや歴史や、歴史を感じることのできるスポットについて紹介していきます。

地の利を活かして発展してきた「桑都」八王子

緑に恵まれた街、八王子発展のきっかけ

八王子は、古くは「桑都」と呼ばれていました。このように呼ばれるようになった理由は、西行法師が八王子を訪れた際、絹織物を売ってたいへんにぎわっている市を見て「浅川を渡れば 富士の雪白く 桑の都に青嵐吹く」という短歌を詠んだことによると言われています。この短歌からも、八王子が絹織物の街としてにぎわい、且つ自然が豊かな街だったことがわかりますね。「桑都」と呼ばれる街は八王子以外にはないとのこと。

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このエピソードからもわかるように、八王子は桑の栽培、養蚕業がさかんな地域でした。現在の八王子市は、再開発によって平坦化されている場所も多くあります。しかし、昔は山がちで稲作や畑作には適さない土地でした。

そのため、農家は水はけのよい扇状地を利用して桑を栽培し、養蚕業を営み収入源としていることが多くあったようです。そうして作られた織物は「八王子織物」と呼ばれて、滝山城下の市で取り引きされました。

交通の要衝として発展した「八王子宿」

1603年(慶長8年)江戸幕府創設後、徳川氏は八王子に支城を置かず、八王子城を廃城とした上で八王子を幕府の直轄領としました。八王子には関東各地の直轄領を支配する代官18人(八王子十八人代官)が駐在することとなり、大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発を担当します。

幕府による開発の結果、現在の八王子の中心市街(八王子駅の北)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町が完成し、この宿は街道中最大の宿となります。毎月4と8の日に市が開かれ、次第に周辺の村々から繭(まゆ)や生糸、織物などが集まるようになりました。大量消費地である江戸に近く、織物の技術が進んでいる桐生や足利にも近いことから、八王子の織物はますます発展しました。

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幕末期になると、横浜開港から輸出される絹が主要な輸出産品となり、八王子は生糸、絹の一次生産地として、また関東各地から横浜へ送り出す輸送の中継地としてさらなる繁栄を迎えます。当時の生糸の主な生産地は、上州(群馬県)、甲州(山梨県)、信州(長野県)などでしたが、作られた生糸の多くは八王子の市に集められ、多摩丘陵を越えて町田を通り、横浜に運ばれました。

もともと八王子の周辺では養蚕や機織りが盛んに行われていましたが、養蚕地帯の中でも横浜港に近く、江戸にも近いといった地理的条件に恵まれていました。八王子と横浜を結ぶ道は「浜街道」と呼ばれ、八王子と神奈川の港を結ぶ街道沿いの鑓水村(現・八王子市鑓水)は生糸の取引繁栄、江戸時代から生糸の取り引きを盛んに行っていた鑓水商人と呼ばれた人々が活躍していました。

出典:絹の道と鑓水商人|八王子市図書館
出典:八王子織物の歴史/八王子市

現代に引き継がれた「桑都」の面影

明治時代になると、日本政府の「富国強兵」政策により大規模な製糸工場も建築されました。大正時代になると、手機から電化されるなどの変化もありましたが、第一次世界大戦下の日本の好景気も後押しとなり、八王子は織物の街としてさかえました。そして、1917年(大正6年)には東京府下で2番目に市制を施行することとなりました。

その後、第二次世界大戦の空襲などの影響を受け、工場が激減し一時的に生産が落ち込みはしたものの、浅川の北側に残った工場を中心に、戦後の復興とともに回復しました。その頃のことは「ガチャ万景気」(「ガチャ」っと織れば「万」と儲かる)と呼ばれるほどだったようです。現在でも、八王子織物工業組合アンテナショップ“べネック”などで八王子織物のネクタイやストールなどが販売されています。

戦後の好景気が落ち着くと、海外製品の影響もあり八王子の繊維業は徐々に衰退していきました。しかし、織物工場運営に必要であった設備のメンテナンスにおける技術力などをもとにして、精密機械をはじめとする近代工業が成長。現在も、先端産業に貢献している企業が八王子市内には数多くあります。

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八王子織物ネクタイ

織物に支えられ、織物とともに発展してきた街・八王子ですが、昔の人にとっては身近なものであった養蚕も、今ではほとんど行われなくなりました。しかし、その面影は今も残されています。

例えば、毎年1月に行われる「どんど焼き」という焚き上げ行事。このどんど焼きという行事そのものは日本全国で見られますが、八王子では、繭の形を模した丸いお団子「マユダマ」を竹串に刺し焼いて食べる風習があります。このお団子を食べると、その年は風邪をひかずに過ごせるといわれているそう。もともとは繭の豊作を祈願するための行事だったようですが、形を変えて現代まで受け継がれています。

また八王子駅の北側、八王子駅入口交差点から国道20号バイパスの交差点浅川大橋南間の道沿いには桑の木が植えられており、「桑並木通り」と呼ばれています。桑の栽培や養蚕は日本各地で行われていましたが、このような桑の並木は珍しいとのこと。発展してきた今も景色として残されていることからも、八王子の人々にとって桑の木がどれほど大切なものであったかがわかりますね。

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桑並木通り

さらに、八王子の「ものづくり」を現代に受け継ぐ取り組みも行われています。そのうちの1つが「つくるのいえ」です。今も織物の街としてさかえていた頃の名残をとどめる中野上町で、古民家を改装して日本の繊維やものづくりを織物の街・八王子から発信する活動をしています。

普段何気なく目にしている景色も、歴史を知ることで新鮮に見えてきますね。八王子には、かつて製糸工場であった「のこぎり型の屋根」の建物が各所に見られるなど、身近なところに織物の街としての姿を残しています。昔に想いを馳せながら散策してみてはいかがでしょうか。

出典:八王子文化財保存活用地域計画
出典:八王子土地条件図/国土地理院
出典:八王子織物工業組合
出典:どんど焼き/夕やけ小やけふれあいの里
出典:つくるのいえ

歴史の舞台にもなった街 八王子

伝説に端を発する「八王子市」の由来

その謎を紐解く鍵は、現在の八王子城の敷地内にある八王子神社にあります。平安時代、妙行(みょうこう)という僧が京都から八王子を訪れ、後に八王子城が築かれる深沢山で修行をしていました。

すると、牛頭天王(ごずてんのう)と名乗る者が8人の王子を連れてあらわれ「我々はあなたの徳に感服しました。ぜひこの地に留まってください」と告げました。それをきっかけに八王子信仰がはじまり、妙行は深沢山のふもとに、この牛頭天王と8人の王子を祀る八王子神社を建立しました。そうして、八王子神社の周辺地域がいつしか“八王子”と呼ばれるようになりました。

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八王子神社

この伝説に登場する牛頭天王というのは、スサノオノミコトの化身とされる神様のこと。牛頭天王が連れていた8人の王子については、諸説ありますが神道によると、スサノオノミコトとアマテラスオオカミの間に生まれた、5人の王子と3人の王女のことだといわれています。

八王子という地名は、文字通り8人の王子のことだったのですね。八王子商工会議所のイメージキャラクターは「8人の王子様」ですが、「八王子」の名前はこの伝説にちなんでいるそうです。

出典:八王子の歴史/八王子市
出典:牛頭天王/コトバンク

八王子の街の基礎をつくった北条氏照と八王子城

養蚕業・繊維業とともに発展してきた八王子。その基礎は、戦国時代に北条氏照によって築かれました。氏照は八王子城を築城した人物として知られていますが、もともとは滝山城(現在の八王子市高月町)の城主でした。しかし、滝山城はなだらかな山にあったため敵に攻められやすく守りにくい城であり、実際に武田信玄軍により落城寸前にまで攻められたこともあったそうです。

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このことを受け、当時天下統一のためにあちこちを攻めていた豊臣秀吉との戦いに備える意味もあり、氏照は険しい深沢山に八王子城を築城し、1586年(天正14年)ごろには移り住んだといわれています。

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八王子城跡

このように攻められにくく守りやすい城として築かれた八王子城ですが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉軍に攻められ、わずか1日で落城してしまいました。当日、氏照は別の場所にいましたが、落城の知らせを聞きたくさんの犠牲者が出たことにショックを受け、豊臣軍に降伏。自身も切腹し、北条氏は滅亡しました。

しかし北条氏が滅亡した後も、氏照により八王子城とともに整備された城下町は、八王子宿に引き継がれ発展を続け、やがて甲州道中最大の宿場町となりました。

出典:北条氏照と八王子城/八王子図書館
出典:八王子城

信仰によって守られてきた高尾山の自然

また、氏照は高尾山薬王院を篤く信仰していたことでも知られ、高野山そのものも庇護してきました。氏照だけではなく養蚕業を営む人々も、蚕をねずみから守るための護符を高尾山薬王院に求めたそうです。

そうするうちに、氏照が整備して発展した城下町が発展していくにつれ、出入りする商人たちが高尾山薬王院の護符を持って各地を訪れることで、さらに信仰が広まりました。八王子の織物の広まりと、高尾山薬王院信仰の広まりは密接に関係しているようです。

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高尾山薬王院

高尾山薬王院信仰には、御利益にあずかるとお礼として杉を奉納する慣習がありました。この杉の奉納は、現在でも八王子のみならず、市外の絹織物の産地から行われ続けています。信仰の広まりにより、高尾山の豊かな自然が守られている面もあるといえます。

現在も観光地として人気で、日本遺産にも登録された高尾山。実は日本遺産は、ただ遺跡や神社仏閣に対してされるのではなく、歴史的経緯などのストーリーを踏まえて認定されます。高尾山も、古来より親しまれてきたからこそ現在も人気なのですね。

出典:高尾山薬王院
出典:「日本遺産」について/文化庁

新鮮組のルーツ「八王子千人同心」とは

八王子市内の甲州街道沿いに、「千人町」という地名があります。これは、江戸時代にこの辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたことに由来します。八王子千人同心はおよそ1,000人ほどの組織で、主に八王子地域の治安維持の業務を担い、役目のないときは農業をして暮らしました。ひとたび命令が下されれば日本各地に赴き、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣しました。

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このようにして、千人同心が住んでいた多摩地域では、剣術がさかんになりました。この地域から新撰組に関係した人には、千人同心とも関わりが深かったと言われています。実際に、局長の近藤勇は調布市、副長の土方歳三は日野市の出身です。江戸幕府への忠誠と剣術のさかんな地域性が新撰組を生み出したともいえます。

八王子市内には、このような由来を記した石碑や神社が多数点在しています。地名には名付けられた当時の様子を垣間見ることができます。

出典:八王子千人同心の歴史|八王子市公式ホームページ

ベッドタウンとして開発が進む 住みやすい街

織物によって支えられ、発展してきた街八王子。都内で働く人たちのベッドタウンとして馴染みが深いため、東京都との結びつきが強く感じられる八王子市ですが、実は1893年(明治26年)までは神奈川県(当時は神奈川府)でした。1889年(明治22年)に新宿-八王子間に甲武鉄道が開通すると、東京都(当時は東京府)との結びつきが強くなったこともあり、東京都に編入されることとなります。その後、織物の発展に後押しされ、1917年(大正6年)に八王子市となり、戦後、1964年(昭和39年)には東京オリンピックの競技会場の一部にもなりました。

日本の高度経済成長に伴い、昭和30年代の東京は深刻な住宅難に陥りました。住宅の建設が市街地から周辺地域へと拡大していき、八王子市をはじめとした多摩地域でも無秩序な開発が行われていました。こうした事態の対策としてはじまったのが、八王子市・町田市・多摩市・稲城市の4つの市にまたがる多摩ニュータウンの建設です。

自然と産業が調和した、歴史の面影を残す街、八王子市の歴史についてご紹介します!

1965年(昭和40年)に計画、1971年(昭和46年)には入居がはじまりました。1986年(昭和61年)以降は、昼間人口が夜間人口に比べて著しく低いことを解消するため、住宅のみならずさまざまな施設を誘致して、多機能型のニュータウンとして発展していきました。

多摩ニュータウンは2021年時点で、約10万世帯に約22万人が暮らしています。都心まで電車で約30分という立地の良さ、整備された街並みと自然、アウトレットなどの商業施設が充実している点が特徴です。建物の老朽化などが問題になっていましたが、再開発やリニューアル工事が積極的に行われ、バリアフリー住宅の整備、戸建住宅の新築など、幅広い世代にとって住みやすい街をつくるための再開発が進んでいます。

出典:八王子市市制100周年記念サイト/八王子市
出典:水道問題と三多摩編入/東京都
出典:多摩ニュータウンについて/東京都都市整備局
出典:多摩ニュータウンの世帯数と人口/東京都都市整備局

近代の日本の産業を支えた街 八王子

自然と産業が調和した、歴史の面影を残す街、八王子市の歴史についてご紹介します!

昔から自然と共生し、人々が集まる中心地として発展を続けてきた街、八王子市。近代の日本の産業を支えてきた街の歴史は、現在では住みやすいベッドタウンとして、沢山の人々の生活を支えています。

日々の生活の中に歴史の長さを感じられる八王子市は、自然と地元愛を育むことのできる、心落ち付ける街だと言えるのかもしれません。

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多摩産材の家

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